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路線探訪-西阪本線(船宿~鷺山)


船宿(ふなやど)

 西智電車の始発駅として、毎日多くの人が行き交う船宿駅。西京は昔から「天下の台所」と言われ、海に面した貿易の町として発展してきました。地名にも、海や川にちなんだものが多く見受けられますが、「船宿」もその一つです。この近辺はかつて、貿易のために他国からやってきた船の乗組員のための宿が数多く建てられていたことから、「船宿」の地名が付いたと言われています。また、宿のそばには長旅の疲れを癒す遊女の店も並び、大変に栄えたとのこと。現在でもその名残りか、駅を中心として多くの店が軒を連ね、昼はショッピングタウン、夜は歓楽街として、眠ることを知らないエネルギッシュな魅力を放っています。

今江町(いまえちょう)

 船宿から1つ目の今江町は、普段は都心のすぐそばと思えないような静かなたたずまいの駅ですが、8月に行われる大国主神社の大祭では最寄り駅として大変なにぎわいを見せます。大国主神社はその名の通り、大国主命(おおくにぬしのみこと)を主祭神とし、五穀豊穣、縁結び、商売繁盛など、人々に幸福を授ける神として、「今江のだいこくさん」と呼ばれ親しまれている神社です。
駅名となった「今江町」の由来には諸説ありますが、「今江」の「今」は「新しい」、「江」とは「入り江、港」という意味で、昔のこの地域は海であり、新しい港が開拓されたことからつけられたのではないかという説が有力と言われています。                  

大国橋(だいこくばし)

 船宿から特急に乗って一つ目の停車駅である大国橋は、JR線とも接続しており乗降客の多い駅です。
大国橋という駅名はこのあたりの地名をそのまま取ったものですが、その由来は隣の今江町駅の紹介で述べた大国主神社に関連があります。このあたりは昔、多くの商人が店を構えており、大国主神社の氏子が多かったといいます。町内には小川が流れていて、そこに古い橋がかかっていましたが、元禄時代に大国主神社が社殿の建て替えを行った際、このあたりの住民がその廃材を譲り受けて新しい橋をかけました。橋の欄干には大国主命の神像が彫りつけられ、それ以降この橋は「大国橋」と呼ばれるようになり、そのままこの地域一帯も「大国橋」という地名になったということです。現在では小川が埋め立てられてしまい橋の面影は残っていませんが、駅から徒歩5分の所にある大国橋公園に、記念の石碑が建てられています。

花見ケ池(はなみがいけ)

 毎年桜の季節になると、駅の目の前にある花見ヶ池公園は観光客で賑わいます。花見ヶ池の名はズバリ、花見の名所であることから付けられたのです。近世小説の一節にも花見ヶ池の話が登場するなど、昔からこの地は西都の観光スポットとして人気だったようです。池ができた経緯についてはよくわかっていませんが、昔この地に住んでいた大男の妖怪が転んでしりもちをついた際に地面に穴があいて、そこに水が溜まってできたという伝説が残されています。その後、地元の庄屋であった櫻井与兵衛が中心となって池の周りに桜を植えて茶屋を開き大繁盛、この地は桜の名所として知られることとなりました。

橘(たちばな)

 下町の住宅地の中に静かにたたずむ橘駅。駅名となった橘周辺の町名から取ったものですが、この地域は碁盤の目状に整備され、西隣には「桜」、そのさらに隣には「柳」といった植物の名前を一字を取った町名がつけられています。
 この地はかつては野原でしたが明治時代に開かれ、区画ごとにそれぞれ橘の木、桜の木、柳の木を一本ずつ植えて目印にしたことから、後年西京府船堂区に編入された際に「橘町」「桜町」「柳町」と名付けられました。1915年(大正4年)に西智電鉄の全身である西都鐵道が開業した際の駅名は「橘町」でしたが、1970年(昭和45年)に住居表示が「橘」に変更されたのを機に、駅名も「橘」になりました。

船堂(せんどう)

 西京府船堂区の中心である船堂駅。駅西口から伸びているアーケード街「船堂銀座」は府内でも有名な商店街で、TVで紹介されることも多く、いつも活気に溢れています。
 さて、「船堂」という地名の由来ですが、かつて海難事故で亡くなった船員の霊を祀ったお堂があったからだとか、船堂某という人間がこの地に住んでいたからだとか様々な諸説がありますが、どれも決定的な確証のないまま現在に至っています。
 西京府船堂郡船堂村が西京府船堂区に生まれ変わったのは1907年(明治40年)。まもなく区制施行100周年を迎えるところです。

永山池梅園前(ながやまいけばいえんまえ)

 船堂駅から出ている都河線と、西智本線に挟まれた位置に、永山池公園が存在します。この地域は元々から永山という地名で、そこにある池ということで永山池と命名されました。池の周りには多くの植物が植えられていますが、特に池の東岸にある永山池梅園は、2~3月の時期は美しい花がたくさん咲き、春の訪れが近いことを知らせてくれます。また、公園内にある食事処「梅屋」では、梅園で採れた梅の実を使った梅酒を楽しむことができ、人気を博しています。

姫江(ひめのえ)

 姫江駅前にそびえる大鳥居は、「ひめのえさん」と親しまれ、多くの参詣客が訪れる姫江大社への入口です。
 姫江大社は今から約1800年前に、時の皇后の夢枕に立った三柱の女神「奥津島比売命(おきつしまひめのみこと)」「市寸島比売命(いちきしまひめのみこと)」「多岐都比売命(たぎつひめのみこと)」の魂を祀ったのが初めてといわれています。この三神は海の神、航海安全の神、運輸交通の守護神としての信仰があり、全国各地に数多く勧請されています。
また、神社に隣接する「姫江会館」は府内有数の結婚式場で、会場から大社本殿へ参拝に向かう際に人力車で新郎新婦を送るサービスは特に人気があり、姫江大社のちょっとした名物になっています。

南姫江(みなみひめのえ)

 南姫江駅は姫江駅の南にできた駅ということで名付けられましたが、実際には西京府都河区内にあります(姫江区は1947〔昭和22年〕に船堂区の一部と都河区の一部が分離・合併して誕生)。都市の開発が進み、この近辺も高層マンションが多く建つようになり、都心との距離が比較的近いこともあって人気があるようです。それに伴い、近々駅前にショッピングセンターが出店予定。南姫江駅の存在感がより一層高まりそうです。

都川(みやこがわ)

 都川駅は1919年(大正8年)、「川端駅」として誕生しました。当時の駅は現在地よりやや南寄りにあり、まさに都川の川端といった感じの駅でしたが、1921年(大正10年)に都川橋梁が開通した際に現在地に移転して、それと同時に「都川」に改称されました。なお、駅名は「都川」ですが所在地は西京府「都河」区で、今でも書き間違える人がいるそうです。
 毎年7月下旬には、都川河川敷で阪江市と都河区が合同で主催する「都川花火大会」が行われ、その際には橋梁を渡る電車もわざとスピードを落として走行し、乗客も車窓からの眺めをわずかながらですが楽しむことが出来ます。

浅野町(あさのちょう)

 駅西口正面に見えるのは、国立西京大学の阪江校舎です。阪江校舎は工学部の学生が4年間学びます。駅前には専門の書店が何軒も立ち、多くの学生の姿を見かけることができ、まさに学問の町というような雰囲気が漂います。
浅野町という地名は、そばを流れる都川の浅瀬の横にある野原という意味でつけられたようです。

阪江(さかえ)

 河内軌道が1910年(明治43年)に阪江~芝野間を開業、これが今日の西智電車への第一歩です。以来、阪江駅は市の玄関口として大いなる発展を遂げ、現在では府内でも有数のターミナル駅となっています。
 阪江の歴史は大変古く、旧石器時代から人が定住し始めたと言われています。鎌倉時代には漁港町として発展し、後に貿易都市として大変な隆盛を誇りました。現在でも商・工業が大変盛んなことはもちろん、府のベッドタウンとしての役割も果たしています。
 この地は昔、ちょうど河内国の境目の港(江)ということで「さかいのえ(境の江)」と呼ばれていました。読みにくいせいか、後に「の」が省かれて「さかいえ」に、さらに「い」も省かれて「さかえ」となり、現在の「阪江」になったと言われています。「さかえ」に改められた背景には、地元住民の「町がますます『栄え』て欲しい」という願いも込められていたのではないか、という説もあるようです。

白土塚(しらどづか)

 JR線との連絡駅である白土塚駅。駅の周りには白土塚公園、市立中央図書館・歴史資料館といった施設があり、独特の落ち着いた雰囲気を持っている町です。
 白土塚の地名は、この近辺に白い土を盛って作った塚(墳墓)があったからだと言われていますが、誰が葬られていたのか、そしてその塚がどこにあったのかははっきり特定されていません。しかし、この近辺は古墳が多い地域で、現在でも調査が進められており、いずれはその謎が明らかになる日が来るかも知れません。

鷺山(さぎやま)

 西智本線と智綾線の分岐点である鷺山駅の周辺は新興住宅地が多く、乗降客数も順調に伸びています。また、駅からバスで5分の所にある西京府立大学農学部のキャンパス内では牛や馬が飼われていて、何とも牧歌的な雰囲気も持つ鷺山界隈です。
 鷺山の地名は、昔このあたりの丘陵地帯に鷺の群れがよく飛来してきたのが由来と言われています。