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路線探訪-西智線(鷺山-和智市)


吉沼(よしぬま)

 鷺山を過ぎたあたりからの西智電車沿線は、宅地化が進んではいるものの、郊外らしいゆったりとした町並みが増えてきます。吉沼近辺も緑が比較的多く、湧き水の出る井戸が残っていたり、小さな沼があちこちで見受けられます。
 駅名の吉沼は沼が多いことからついた地名で、もともとはアシ(葦)がたくさん生えていたことにちなんだ「葦沼」でした。しかし、葦は「悪し」に通じて縁起が良くないため「吉(良し)」に読み替えて、現在の地名になったということです。

国見ヶ丘 (くにみがおか)

 今や府内でも屈指の規模を誇る国見ヶ丘ニュータウン。その玄関口に位置するのが国見ヶ丘駅です。
 1916年(大正5年)に西智軌道がはじめてこの地に鉄道を敷いた時の駅名は「笹原城址(ささはらじょうし)」。野原の中の小さな駅で、駅の北部にある笹谷城址がそのまま駅名に使われました。
 この地が一大ニュータウンへの変貌を始めたのは1965年(昭和40年)。かつて笹原城は、国中を見渡せるような見晴らしの良さから別名「国見城」と言われ、そこから「国見ヶ丘」という地名が誕生し、駅名も改称されました。
 現在のニュータウンの人口は約20万。今日も朝早くから夜遅くまで、多くの乗降客が行き交っています。

豊岡 (とよおか)

 国見ヶ丘の次の駅である豊岡は、国見ヶ丘ニュータウンの拡大に伴い住宅地としての開発が進みつつありますが、まだまだ緑の多い場所です。
 豊岡の地名は、駅から15分の所にある古刹「宝嶺寺」の山号「豊岡山」からつけられたと言われています。

楠之井 (くすのい)

 「楠之井の天王さん」と呼ばれて親しまれている四天王寺は年中参詣客が絶えず、その最寄り駅である楠之井駅もまた、いつも賑やかです。
 創建の年代は、資料が乏しく定かではありませんが、こんな伝説が残されています。昔、この地は小さく貧しい村でした。ある日、ここを通りかかった旅の僧が病に倒れ、村人みんなが手厚く看護してあげたそうです。一年の養生の後に僧はすっかり元気になり、村人たちへのお礼にと言って、村で一番大きい楠の木の下で念仏を一心に唱え、持っていた錫杖(しゃくじょう)で地面を一突きすると、なんと水が湧きだしてきました。村人たちは井戸を作り、その水を飲んだ人たちは皆健康になって長生きしたそうです。僧は村を去る時に、四体の仏像を彫って小さなお堂を造り「この四天王様が村をいつまでも護って下さいます」と言い残しました。そのお堂が現在の四天王寺になったと言われています。そして、楠の木の下にできた井戸が「楠之井」の地名の由来になったということです。
 境内には、その楠の木と井戸が現在も残されていますが、残念ながら水はもう出なくなってしまったそうです。

東出海 (ひがしいずみ)

 船宿から乗り始めて都会を過ぎ、ニュータウンも過ぎたこのあたりは、緑が多い風景が一気に広がります。このあたりは旧・河内国の中でも海に近いため「出海」という地名がつけられたと言われています。出海地方は広範囲で、ここの他にも「出海井原」駅にその名が使われています。

山之内 (やまのうち)

 山之内はもともとさほど目立たない折り返し駅でしたが、東河内ニュータウンが整備されると、西鳳開発鉄道と接続する大型駅に生まれ変わりました。山之内という地名はズバリこのあたりの地形を表していて、あたりに小高い丘(山)がいくつかあります。その丘の一つに祀られている山王神社(駅から徒歩7分)の神楽は歴史が古く、府指定の無形文化財に指定されています。

粕谷 (かすや)

 この近辺はあまり宅地開発が進んでおらず、駅舎も古めなのですが、その鄙びた雰囲気がいいという声もちらほらと聞かれる粕谷駅。
 かつて粕谷家和という豪族がこのあたりに住んでいたことからその名が付いたと言われ、駅から徒歩20分の所には、家和の墓といわれる塚も残されています。

光の森 (ひかりのもり)

 「光の森」とは、1974年(昭和49年)に開設された府営の公園緑地で、この駅はその開設と同時に誕生しました。大池・小池の2つの池を中心に多くの木々が茂り、夏は青少年のキャンプ、春や秋は弁当を持った家族づれや若者たちでにぎわい、特に5月に行われるバラ祭りのころは、大変な人出となります。

薮塚(やぶづか)

 このあたりは竹藪が多く、駅から10分ほどの所に地名の由来となった塚が残されていて、小さな祠が祀られています。どういう経緯で造られたのかは不明ですが、「この塚の下に金銀財宝が隠されているが、呪われるので誰も掘り起こした者がいない」という面白い言い伝えが残されていたりします。

大越(おおこし)

 石塚市の新興住宅地として近年開発の進んできた大越近辺は、現在でも宅地造成が行われていて、今後の発展が期待されています。
 石塚近辺の地域は山が多く、その山を越えるための大きな道があったことから「大越」の名が付けられたと言われています。

石塚(いしづか)

 河内電鉄線との連絡駅である石塚。石塚市は隣の井原市とともに繊維工業で発展した都市で、現在も多くの工場があります。また、最近ではベッドタウンとしての機能も注目されています。
 石塚の地名の由来は、石塚から河内電鉄線で一つ目の中崎原駅そばにある石塚神社が由来といわれています。石塚神社は市内の総鎮守で、ご神体が大きな石であることから「石塚の宮」と言われ、それがそのまま地名になったということです。

家(ふるや)

 このあたりは古くからの住宅が多く、ところどころに蔵造りの家が見られるなど、歴史を感じさせます。地名も古家と言うぐらいで、発祥は定かではないのですが、かなり昔からこの地には人が住んでいたのではないかと言われています。

東井原(ひがしいはら)

 西智線と空港線とが再合流する東井原駅は、検車区が設置されており、各駅停車の大半と一部の急行の折り返し点になっています。
 駅ができた当初は、井原村の東部にあったことから「東井原」と名付けられましたが、井原村が市に昇格した際に周辺の村を吸収合併したこともあって、現在は比較的市の南寄りに位置しています。
 1996年(平成8年)に、市役所がこの地にに移転して以来、マンションが多く建つようになって、人口が飛躍的に増え始めてきました。

出海井原(いずみいはら)

 井原市の南端に位置する出海井原駅は、長年市役所の最寄り駅として使われていましたが、1996年(平成8年)に市役所が東井原に移転したことで、新たな発展の道を模索しようとしています。市役所跡地には1998年(平成10年)に市民ホール・美術館が建てられ、コンサートなどのイベントが頻繁に行われています。
 駅名は、「井原市」駅との混同を避けるため、頭にこのあたりの旧地名である「出海」をつけて「出海井原」になっています。

姫観音(ひめかんのん)

 駅前から延びる参道を歩いていくこと15分。駅名の由来にもなった観世音寺があります。この地を治めていた春崎城主、小池治伴の娘であった延姫が重い病にかかり、治伴は自ら観世音菩薩の仏像を彫って、娘の病気平癒を熱心に祈り続けたそうです。祈りが通じたのか延姫は元気を取り戻し、これに感謝した治伴は現在地に観世音寺を建てて、その仏像を祀りました。姫の命を救った観音様ということでいつしか「姫観音」といわれるようになったということです。現在でも、病気平癒の御利益がある寺として人気があります。

樫村(かしむら)

 重化学工業地帯で有名な春崎市ですが、このあたりは山寄りということもあって喧噪も少なく比較的静かな場所です。
 このあたりは樫の木などの樹木が生い茂っていた場所で、その集落を表す「樫村」がそのまま地名・駅名になりました。
 野球などスポーツの名門として有名な市立春崎高校はここが最寄り駅で、朝夕には生徒たちの元気な声が駅周辺に溢れます。

春崎(はるさき)

 和智県最北端の都市である春崎市は、重化学工業地域の海沿い、自然の多く残る山沿いと、地域によって全く性格の異なる特色を持っています。
 この地域は、海寄りに張り出した場所(=崎)であったために「はるさき(波留崎)」と呼ばれていましたが、戦国時代に小池家がこの地に城を構えた際、初代城主の治邦(「姫観音」で登場した小池治伴の祖父)が縁起のいい「春」という字を当てて、現在の地名となりました。
 駅東口からバスで10分のところにある春崎城公園には、当時の城が復元されて展示されており、人気を集めています。

出海石田(いずみいしだ)

 春崎市の市街地を抜けて一つ目の駅である出海石田。北和智山脈も近くに見え、自然に恵まれた場所と言えます。住宅は少なくないのですが、普段はとても閑静な場所です。
 石田の地名は、小石の多い土質であるところからついたと言われており、JR石田駅と区別するため「出海石田」と命名されました。

山畑(やまはた)

 春崎市南西部の山畑地区は、地名にあるとおり、山の斜面にみかん畑があります。みかんは和智県の特産品のひとつですが、その中でも「山畑みかん」は大きさ・味ともども一級品と評判で、全国的にもその名を広く知られています。収穫の季節、電車の車窓から山側を見ると、たわわに実って色づくみかん畑を見ることができます。

明神谷(みょうじんだに)

 山脈がすぐそばに迫り、山地ならではの爽やかな空気が流れる明神谷駅。駅名の由来となった「明神谷」近辺はその昔、川の流れが速く「落ちてしまった人や馬はまず助からない」と言われました。そこから昔の人たちはこの谷に神威を感じ、「明神谷」と呼ぶようになったといいます。
 現在では地形の変化もあって川の速さはさほどでもなくなりましたが、谷のそばに水の神「九頭龍(くずりゅう)様」と呼ばれる大岩があり、地元の人々が毎日お供えを欠かしません。

湯坊温泉(ゆぼうおんせん)

 西京府中心部から比較的近く、手軽に行ける温泉として人気のある湯坊温泉。今から約800年前に万浄上人の手によって発見されたといわれ、昔から湯治客で賑わっていたということです。泉質は単純泉で、神経痛・リウマチ・神経麻痺・外傷後遺症・不眠症・脳卒中に効能があり、飲用は胃腸病にもよいとのことです。
 この地を愛した著名人は数多くいますが、その中でも小説家・川上潤之輔(1917~1984)はこの地を舞台にした「夕暮の道」「からくり時計」という作品を著しました。川上は乗り物好きでも知られ、随筆「ゆらゆら日記・西智電車編」では湯坊温泉はもちろんのこと、沿線全体についても詳しく書いています。

森永(しんえい)

 森永駅から徒歩20分の所に、地名の由来となった森永山(しんえいざん)龍徳寺があります。そこからさらに歩いて10分の所にあるのが八雲(やくも)温泉です。その昔、雲に乗った仙人が現れて、村人にこの温泉を教えたという伝承が残っています。駅から少々距離があるため、湯坊温泉ほどの賑わいはないのですが、そこが逆に「静かで落ち着く」という評判を呼んでおり、古くからのファンも多くいます。

和智岩井(わちいわい)

 和智県の県庁所在地・和智市に入って一つ目の駅が和智岩井ですが、このあたりはまだ市街地としての賑わいはありません。
 岩井の地名の由来となったのは、駅から徒歩15分のところにある、岩間から湧き出る泉「磐井」です。おいしいばかりでなくミネラルも豊富に含まれ、地元では現在も飲用として使われているとのことです。

永本(ながもと)

 このあたりは山間部の小さな集落です。地名の由来ははっきりとはわかっていませんが、昔このあたりに架けられていた長い橋のたもとにある集落であることから「長本」となり、のちに「永本」に転じたという説があります。
 このあたりはおいしい山菜が採れるという評判で、使用している飲食店も少なくないそうです。

和智大宮(わちおおみや)

 永本駅を出た列車は長いトンネル内に入り、そこを抜けると一気に平野部が広がり、和智市の中心部に近づきます。
 和智大宮駅は「大宮」と名の付くとおり、全国的にも有名な和智大社のお膝元(駅から徒歩10分)です。創建は千年以上も前といわれ、木の神様といわれる五十猛命(いそたけるのみこと)をはじめ、その他四柱の神が祀られています。本殿は「和智造」といわれる独特の造りで、国の重要文化財にも指定されています。和智地方は昔から自然に恵まれ、木々の多い所で、県内には同じ祭神の神社が多数あり、木の神様への信仰の深さを感じさせます。

和智中里(わちなかざと)

 和智市の中心に近づき、和智中里あたりになると家やビルの数もだいぶ増えてきます。このあたりは和智大社の門前町として栄えた地域で、郷(里)の中心であったことから「中里」の地名になったと言われています。この駅は、和智県内の戦没者の霊を祀る和智護国神社の最寄り駅でもあります。

和智市(わちし)

 和智県の県庁所在地である和智市の中心駅が、この和智市。県庁、市役所へはここからバスが出ています。駅周辺にはデパートの高杉屋など商店が多いのですが、近年は不況のあおりもあり、客足が今ひとつ芳しくないようです。昨年10月には地元で一番の老舗であった丸王百貨店が倒産、廃業するなど、暗い話題もありました。
 和智という地名がなぜここに付いたのかは、実はあまり定かではないのですが、「ワチ」の意味には「猪の害を防ぐために共同で作った柵をワチといい、その生活共同体もまたワチという」「川が輪のような形に湾曲している土地=輪地」「茅の類の丈の長い草」などの諸説があり、いずれにせよ、この地の地形の特徴からついたものであろうと推測されています。