当サイトの内容はすべてフィクションです。

 

路線探訪-空港線(国見ヶ丘-東井原)


国見ヶ丘西(くにみがおかにし)

 1966年(昭和41年)、西智電鉄国見線(現・空港線)が開業した時に、この駅も国見ヶ丘西部の乗降客を見込んで誕生しました。当時の駅前は何もない野原でしたが、現在では住宅も増えて活気があります。
 1992年(平成4年)に国見線が阪江国際空港まで延伸、さらに1995年(平成7年)には東井原まで延伸されて利用客も増え、これからますますの発展が期待される駅です。

浜崎公園(はまざきこうえん)

 駅から徒歩で10分足らずの浜崎公園は、戦前の大財閥と言われていた浜崎家の邸宅跡にあります。戦後、財閥が解体された際に浜崎家が土地を府に寄贈して公園となったもので、園内には浜崎家の旧邸宅が残され、当時の面影をしのぶことができます。また、旧邸宅の庭部分にあるバラ花壇は、季節になると豊富な種類の花を咲かせ、見る人の心を癒してくれます。

南阪江(みなみさかえ)

 空港のそばでJRの駅もあるという地理もあってか、このあたりは大手企業のオフィスや倉庫、工場が多く存在します。このあたりは「商工業の町・阪江」の象徴的な風景とも言えるでしょう。
 阪江国際空港の誕生で延伸されるまで、この駅が国見線(現・空港線)の終着駅でした。JR南阪江駅と連絡するため「南阪江」とつけられたわけですが、実際には少し離れた場所にあります。
 空港の誕生・路線延伸により、爆発的に乗降客が増えた南阪江駅。現在は駅舎の改造工事中で、完成の暁にはJRとの新しい連絡通路が完成して、より便利になる予定です。

南阪江貿易センター(みなみさかえぼうえきセンター)

 1992年(平成4年)、阪江国際空港の誕生に伴い設置されたのが南阪江貿易センター駅です。駅前にある南阪江貿易センターは、かつてJR須賀崎駅の近くにあったのですが、建物の老朽化と空港の開設がちょうど重なり合ったために現在地に移転されました。たくさんの会社のオフィスがここにあり、毎日朝早くから夜遅くまで、ビジネスマンがあわただしく行き交います。

阪江国際空港(さかえこくさいくうこう)

 この地方の旅客飛行機の発着は、かつては府北東の白幡市にある西京白幡空港が中心でしたが、発着便の増加によるキャパシティの限界や施設の老朽化、また騒音などの問題もあって、1992年(平成4年)に新しいターミナルとして作られたのが阪江国際空港です。空港線はライバルのJR阪南本線と共に旅客ターミナルに直結しており、毎日たくさんの乗降客があります。
 最初は一支線に過ぎなかった国見線(空港線)も、空港誕生のお陰で今や西智電車の中心を担うまでに成長しました。

空港貨物(くうこうかもつ)

 阪江国際空港の貨物ターミナルの最寄り駅がここです。空港線開業の際に、旧貨物ヤード跡地に空港貨物車両区が併設され、そのために設置された新駅です。空港行の列車も、実際にはここまで乗客を載せて来ます。場所がら一般乗降客は少ないのですが、空港に勤務する人たちがよく利用しています。駅前は倉庫会社の建物が立ち並び、たくさんのトラックが行き来しているのが目立ちます。

方年寺(ほうねんじ)

 空港地域を過ぎ、再び内陸部分に入ってすぐにあるのが方年寺駅です。ところが、この地域は方年寺という地名でありながら、肝心の方年寺が存在しません。それはなぜかというと、もともと方年寺という寺は現在の西京府船堂区内にあったのですが、江戸時代中期に起こった「船堂の大火」で町ごと焼けてしまい、寺の近所の住民がこのあたりに避難してそのまま住むようになり、地元が名残惜しかったのか、方年寺の名を地名に残したのです。ちなみに、焼けてしまった船堂区の方年寺は一時再建されたのですが、その後廃寺されてしまい、現在は五輪塔だけが残されています。
 空港線が全線開業するまでは、この方年寺駅が旧井原線の終点でした。当時は2両の電車がのんびり往復する長閑な路線でしたが、空港線と接続する際に複線化され、現在では最大8両編成の列車が頻繁に行き交う通勤路線と変ぼうしました。

駒谷(こまたに)

 駒谷は井原市の中心部に近く、駅のそばには大手繊維会社の工場があります。
 元々この地は「駒飼(こまがい)村」と「谷井(たにい)村」の二つの村があったのですが、1927年(昭和2年)に両村が合併した際に、双方の一字ずつを取って「駒谷村」となったのがこの地名の発祥です。駒谷村はその後、井原市に統合されましたが、「駒谷」の地名はその一部に残り、現在に至っています。

井原市(いはらし)

 隣接する石塚市と共に繊維工業の町として有名な井原市。近年では両市の合併構想も持ち上がっているようです。「井原」の地名は、このあたりに地下水脈が多く、どこを掘っても簡単に井戸ができることからついたと言われています。繊維工業が栄えたのも、水が豊富というこの地の特徴抜きには語れません。現在でも町の至る所で井戸を見ることができ、生活用水として井戸水を使用する家も少なくないとのことです。